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「表現の不自由展」中止に賛否の声別れる

あいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」が中止になった問題は、表現の自由の意味や、芸術への公的助成のあり方をあらためて問いかける形となった。

 




 

嫌悪する表現に機会、それこそが自由

近代以降、社会は多様な意見があることを前提に成立しており、その表現の内容について、公権力が何がいいか悪いかを決めることはできない。憲法上、名誉毀損(きそん)やわいせつ表現など一定のケースを除き、表現内容に基づいて表現の自由を規制することはできないのだ。

一方、国家が文化振興などの目的で芸術に資金を助成することがある。そうした場合には「お金を出す以上、口も出していいのでは」という人もいるかもしれない。

ただ、なぜ芸術を国家が支援するのか考える必要がある。五感に訴えかける芸術は、多様な生き方、価値観の存在を知らしめ、個人の人格の陶冶(とうや)に資し、ひいては社会の成熟をもたらすことが期待されるからだろう。

芸術にはお金がかかるものだ。もし、そこで国家が口を出すことを認めてしまうと、圧倒的な資金、マネジメント力を持つ国家に、芸術の自律性が押しつぶされ、結局、社会の多様性が失われてしまう。

だからこそ、芸術への助成と、その表現内容への介入は直結させないという考え方が、憲法学者の間では一般的だ。

一方、トリエンナーレ実行委員会の判断はどうだったのか。中止理由に脅迫があったことが挙げられていた。そもそも、だれかが平穏に表現活動をしようという時に、敵対する人からの暴力や脅迫が予想されるという理由で表現の場を提供しない、となれば表現の自由は成り立たなくなる。

最高裁の判例でも認められている「敵対的聴衆の法理」という考え方がある。平穏な集会の開催を拒否できるのは、警察が警備してもなお混乱を防げないなど特別な事情がある場合に限られる、というものだ。敵対的聴衆がいるからといって、すぐに表現活動を制限できるわけではない。

また、企画展の開催中、電話やメールで度を超した抗議が多く寄せられたという。近代では、市民を抑圧する権力者にどう対峙(たいじ)するかが問題だったが、民主化が進んだ現代では、加えて、社会の「多数者」も抑圧的な存在になりうる。

異なる意見を受け入れることは、だれしも困難なことだ。ただ、自分が嫌悪する表現にも、表現の機会を認めるのが表現の自由だ。それは「不自然」なことかもしれない。

だが、その不自然さこそが、自由で民主的な社会を形作ってきた。自由に表現でき、その表現に自由にアクセスして、自由に思考できる。そんな空間を壊すのも維持していくのも、結局、我々次第だ。

 




 

芸術監督の職責、作品守ること

表現の不自由展をめぐる問題では、誰の「表現の自由」が、いつ、誰によって、何を理由として、どのように制約されたのか。焦点を明確にするために、その点を整理して考えたい。

憲法の表現の自由の基本的発想は、戦前のような国家権力のあからさまな圧力を想定し、刑事罰などによる表現活動の制約を防ぐというものだ。しかし判例や通説では、表現者に発表の機会を提供したり作品を展示したりすることまでは、行政に義務付けていない。

不自由展の企画を担当した民間メンバーや作者は、自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは規制されていない。そのためもし裁判になる場合は、表現の自由の侵害を主張するのは困難を伴うだろう。

一方、訴訟から離れて、表現の自由が保障されていることによって得られるはずだった価値を、「社会全体として」傷つけられたという論の組み立ては可能だ。展示が続けば、多くの人が鑑賞して考えを深めるといった何らかの社会的価値が生まれたはずだが、中止されたことでかなわなかったという主張だ。

誰が表現の自由を制約したのか。展示の中止を決めたのは、トリエンナーレ実行委員会と芸術監督の津田大介氏だ。中止の主な理由は「安全」だった。

問題なのは、芸術監督が中止の判断に関わったことだ。憲法学では、行政が作品の政治的良しあしを助成の判断基準にしないよう、文化芸術の専門職に助成先決定の判断を任せ、その自律性を尊重するのがあるべき姿だと考えてきた。

イギリスでは、芸術助成に際し、行政と距離を置いた専門家らによる第三者機関が審査して助成先を決める「アーツカウンシル」という仕組みがある。これを参考にした議論だ。

今回、行政の中止判断から作品を守ることが職責であるはずの芸術監督自らが判断に関わった。専門職に任せれば表現の自由の侵害から芸術が守られるという前提や、表現空間を支える信頼関係が崩れた。

従来も日本では、専門職である美術館長が展示中止の判断を主導することがあった。その歴史をふまえれば、個人の問題というより構造的問題だろう。たとえ専門職による判断でも、芸術の振興とは逆の結果を招くものである場合には、芸術の本質的な役割をうたった文化芸術基本法なども生かしながら、その判断に何らかの縛りをかける仕組みが必要ではないだろうか。

 

※この記事は他ニュースサイト、個人ブログ、ガールズちゃんねる等からの引用抜粋です。

POSTED COMMENT

  1. きしめん より:

    これに関しては、河村たかし名古屋市長の意見に同意しました。「民間の芸術展で『表現の不自由展』をやっているならどんな展示をしてもいい。ただ、この内容を公的なお金を使ってやるものではない。」
    他の展示会で断られたものを集めた『表現の不自由展』だから、センセーショナルな内容のものが多くなりそうだと容易に想像できると思います。

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